時々パパ日記

共働きで妻と2歳半の長男と3人、日々の出来事や思ったことを書いています。

プログラミング教育は子どもを進化させるか(2)

アラン・ケイの理想をどう考えるか。

ある程度コンピュータに興味がある方であれば、アラン・ケイの名前は聞いたことがあると思う。まだコンピュータが小学校の教室くらいの大きさで、軍事用途や国税調査、民間では銀行業務などの大掛かりな処理にしか使われていなかった時代に、個人が自分専用のコンピュータを使いこなす未来を夢見て精力的に研究を進めた人物で、彼の言葉の「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」はとても有名。普通に聞くと、その未来はすでに実現しているように見えるけれど、彼の夢はもっと人とコンピュータの距離が近い形での「コンピュータ利用」だったので、現在はまだまだ道半ば。

どういう事かというと、アラン・ケイにとって、コンピュータを利用するという事はプログラミングを行うということと同義ということ。

実際に、彼の論文(和訳がいくつも出版されています)を読むと「小学生くらいの子どもを集めてプログラミングを行わせた結果、大人顔負けのアプリケーションを作った!」といった趣旨の研究を熱心に行っていたことがわかる。そういった感動から、彼は子どものうちからプログラミング教育を続ければ、現在の僕たちよりももっと自由にプログラミングを行い、必要に応じて既存のプログラムを修正しながら最適な方法で課題を解決していく、といったコンピュータの利用形態を夢見ていた。

コンピュータリテラシー」という言葉もアラン・ケイが考えた言葉だけれど、この言葉からもわかるように、前提となる知識や感覚を早いうちから積んでいかないと、上述の未来に届かない、という焦りみたいなものも裏にはあると思う。

別の見方をすれば、ようするに英語教育と同じようなもので、大人になってから勉強してもネイティブ並みの英語力はなかなか身につかないけれど、小さいうちから勉強すれば素晴らしいプログラミング能力持っていることが普通になるだろう。ということ。英語と違うのは、ゴールが無く、僕たちも出来ていない世界を作ってもらえる期待を込めている、ということだろうか。

確かに、誰もがプログラミング言語を高度に理解して、自由にアプリケーションを作りながら仕事ができるようになれば、素晴らしい世界が訪れるかもしれない。僕自身もプログラミング言語が好きなプログラマだから、そういう未来を見てみたい気はする。問題は教育する側にその理想像が見えているかということ、それと、子どもには向き不向きというものがあるということ、世界は役割分担の上になりたっている(と僕は思っている)ということ、だと思う。

(個人的には、アラン・ケイの事は尊敬しています。ここでは書けませんでしたが、60年代70年代のアメリカで行われた多くの理想的な研究を理解するには、裏にあるヒッピー文化みたいなものも合わせて見る必要があると思います。そういう意味でも、単純な輸入では済まない部分があると思います)

次回に続きます