時々パパ日記

共働きで妻と2歳半の長男と3人、日々の出来事や思ったことを書いています。

プログラミング教育は子どもを進化させるか(5)

今回で最後なので、シリーズタイトルの結論をあらためて書くと、早いうちからのプログラミング教育は子どもを進化させる。少なくともその可能性は大いにあると思う。ただ、ここで言う進化というのはあくまでもテクニックの面のみの話であって、その結果日本から世界に誇れるプログラマがどんどん生まれるかというと、前回の通り疑問に思う。

個人的にはプログラミングに割く時間枠があるなら、数学や理科の時間を増やしたほうが良いのではと思う。もちろん、文科系の時間は減らさずにという条件付きで。つまり、そんな時間はない。

もちろん、自分の子どもをプログラマにするつもりなら、そういう教育が必要だろうと思うけれど、そうで無いなら必要無いと思う。欧米やインド、イスラエルなど、プログラミング教育の先進国ではよりコンピュータサイエンスに近い部分を早くから教えているようだけれど、このやりかたこそ、日本がもっとも苦手な部分だと思う。どういうメカニズムかは議論するつもりはないけれど、日本のビジネスの現場における理論軽視の風潮は今後も変わらないだろうと思うから、日本でコンピュータサイエンスの授業が現実的な実績に結びつくとは思えない。だから、プログラマの需要が増えるからといって焦るなら、専門学校でやっているような実務に結びつくレベルの教育をやる必要があるはずだけれど、大学の先生方にそういう授業ができるとは思えない。つまりは、社会に出て自分で勉強するしかないね。という話になってしまう。今はどうかわからないけれど、僕の就職した頃は、文系でも余裕でプログラマになれた。ようするにどんな勉強をしてきたかなんて業界は気にしていない。

話がそれてしまったけれど、僕は人の成長は一生続くと思っている。その中でも思春期を超えるまでに触れるものは、当人の生涯に大きな影響があると思う。

多くの教育論が言っているように、幼少期の現実世界とのふれあいはその人の感覚や感受性に大きな影響を与える。小学校から野球の練習をしている子どもは、飛んでくるボールとの距離を把握する能力や、バットを性格にコントロールする能力が高くなるという。この能力がビジネスの現場での状況判断を正確なものにするかもしれない。小さいころから自然に触れて育った子どもは周囲の様々な状況変化から、世界が向かっている方向を敏感に感じ取る感性が高くなるかもしれない。

もちろん、ゆとり教育について再考するつもりはない。国語や数学など、知恵の基礎になりそうな教育は全て、適切な時期に教えることで上の野球や自然の話と同じように人としての成長に重要な意味を持つと思う。僕は古文を真面目にやらなかったせいで、百人一首のどの歌にも大して感動できない自分の感性を日本人として引け目に感じている。はたして全ての人にプログラミング教育がそのくらい重要なのかというと、違うと思う。

そして、人にはいろいろなタイプがある。ドイツのC.G.ユングが言っているように(僕は高専出なので高校時代は理系だったけれど、大学は文系で卒論に選んだのはこのユングさんのタイプ論)、人には内向的、外交的の区別の他に、直感型、思考型などいくつもの心のスタンスがある。内向的な人にも、外交的な人にもそれぞれに良さや、なおした方が良いところがある。自分がどんなタイプに属していたかを判断するのは、とても難しい。内向的だと思っていたけれど、案外営業が面白かったとか、様々なケースがある。フロイトユングはこの勘違いを、無意識に抑圧された反対の性質への憧れで説明しているけれど、この難しい判断を中学校や高校時代にできるはずがないので、進路指導で行われている適性検査などは参考にできるか怪しいしろものだと思っている(いちおう心理統計を中心に勉強していたので、適性検査が非常に丁寧な学術的手順で作られているのは知っているけれど)。

話が広がってしまったけれど、プログラミング教育みたいなちょっと特殊な匂いのするものは、やっぱり選択制にしてくれた方がありがたいという話でした。

通勤時間に書いた荒い文章ですが、5回のシリーズで硬い文章が続いてしまいました。
お付き合いいただきありがとうございます。