時々パパ日記

共働きで妻と2歳半の長男と3人、日々の出来事や思ったことを書いています。

結婚生活という人生を考える〜籍や名字のはなし(2)〜

前回の最後に、僕の方の田舎に帰ったときにも関係が悪くなったと感じる事は「少ない」。と書いた事について。

「少ない」というのは、やっぱり会話の中で「ほら、〜〜の息子の、婿に行った」といった紹介をされることがあるので、もちろん事実なのですが、言い方とか雰囲気が全く気にならないというと嘘になります。

僕の兄弟で結婚しているのは長男の僕だけで、他の兄弟は当分結婚しそうにないので、僕個人の気持ちとしても、家系の中で連綿と続いてきた名前がここで止まってしまうという事は親族に対して申し訳ない気持ちもあります。父方の田舎に行って、父や祖父、曽祖父の生き方や思い出話を聞いている時などは、やっぱりそう思います。

けれども、こういったことは大かれ少なかれ2人のうちのどちらかが必ず感じる感情です。

以前は小説をよく読んでいましたが、勢いのある女性が出てくる物語が好きでした(今でも好きですが)。海外ではロマン・ロランの特に「魅せられたる魂」とか、日本では藤堂志津子江國香織三浦綾子が好きでした。三浦綾子の場合は男性が主人公の小説が多いですが、三浦氏本人の考え方が僕と合っていると思って読んでいました。こういった小説を好んで読んでいると、なかなか「あなたの名前に変えるのが、私の幸せ」といった発想は出てきません。そういう価値観の人もいるかもしれないけれど、僕の周りでは想像できませんでした。

ロマン・ロランでは主人公のアンネットだけでなく、心が強い姉のシルビアも好きです。二人の名字のリビエールはフランス語で川という意味だそうで、同じくフランスの小説家のモーリアックは川に家系という意味を掛けて小説を書いています。モーリアックの代表作「テレーズ・デスケイルウ」も女性が主人公の傑作ですが、彼女が夫の毒殺を計って裁判を受ける話(小説の持つ価値観もその行為を否定しません)なので妻には勧められません(汗。けれど、遠藤周作の「深い河」を読んだことのある方は知っているかもしれませんが、深い河の主人公?の女性は愛読書として「テレーズ・デスケイルウ」を持ち歩いていて、やっぱり意志的な女性です。モーリアックはこの作品でノーベル文学賞を受賞しています。

断っておかなければならないけれど、僕は趣味で妻の名前にしたのではなくて、最大の判断基準は単純に入籍時の年収が妻の方が高かったからです。それ以外のことはみんな後付けの理由と考えてもらっても良いです。

本当は僕の年収の方が高かった時期もあるのですが、サブブライムローンだとかリーマンショックのおかげで・・・。結婚当時は小さくても新しい証券会社に勤務していましたが、この会社は上記2つの苦境に加えて東日本大震災時の株価暴落に最後の一撃を受けて、現在は存在しません。暴落で損するのは客でしょ?、なんで証券会社が潰れるの?と思う方もいるかもしれないですが、この手の話はまたの機会に。

務める会社の規模や安定性を考えると、妻の方が明らかに戸主としての資格があったわけです。

あと重要な要因がもう一つ、僕は生まれてからひたすら「モテない村」の住人だったので、何もかも妻が初めてでした。はい、この理由からくる心情も大きな要因です。

さて、名前の話に戻ると、男が名前を変えたということで色々言われるのも事実です。会社の上司から「やっぱり、不甲斐ないよな」と言われたりもしました。逆に、「これからは、そういう時代だよ」と喜んでくれる上司もいました。

一番ショックだった話です。会社の関係で遠方に住んでいる年配の方と、電話で定期的にやりとりがあったのですが、この方は認知症気味で癇癪持ちでした。結婚後に久しぶりに電話した際に私が「〜〜です、、あ、いや私名前が変わりまして、、、」と第一声で新しい名前を伝えてしまったところ、続く説明を全く受け入れてもらえず、「〜〜なんて奴は知らないんだよ!だれだお前!言ってることが全然分からないよ!日本語話せ!!」とパニック気味に強い調子で拒絶されて、そのまま関係が切れてしまったことがありました。

名前を変えるということは、やっぱり当人にとってはデメリットもあるのですが、考えるネタを見つけては脳内遊泳を楽しんでいるような僕にとっては格好の、一生失われることのない考察の材料が増えたのは良かったのかもしれないです。

結婚と不平等の文脈で語られることがある名前の問題ですが、個人的には名字が変わるということ自体は大したことではなくて、結婚によって暗黙の主従関係が始まってしまう現在の総合的な状況に問題があると思います。この状況が価値観なのか制度なのか何なのかはにわかに判断できないのですが。

今では職も変わり、親族以外は旧姓を知っている人との付き合いもだいぶ減りました。この文章のような機会がなければ、普段は旧姓の事を思い浮かべることが無いほど、今の名前に馴染んでいます。