時々パパ日記

共働きで妻と2歳半の長男と3人、日々の出来事や思ったことを書いています。

男子の父として、上村くんの事件から考えなければいけないこと(3)

上村くんが、いわゆる不良グループとの関わり続けてしまったことについて。

多分、僕も含めて、男の子をもつ親が一番心配しないといけないのはこの点だと思います。自分の子どもが加害者になってしまうという可能性に対しても注意は必要だけれど。やはり数というか可能性という点ではそういうグループとの接点を持ってしまって、ズルズルと引き込まれてしまう。という事の方がより身近な心配ごとだと思います。

もちろん、夜遊びをさせないとか、ゲームセンターへの出入りを制限するといった、物理的な制約はとても有効と思うけれど、親としてはそういった事への憧れの芽生えや、憧れを現実にしようとする動機の出現の方が心配です。

悲しいことに、反抗期を迎えた思春期の男の子であれば、一種のアウトロー的なグループに憧れを抱くのは仕方ないことだとは思います。このあたりは色々な視点から考察が考えられますが、とりあいず僕が大学の卒論でテーマにしたユング派の場合の解釈を僕なりに考えてみたいと思います。
(あくまで、不良グループへの憧れと、そこから抜け出せない理由に対する考察として話をします)

まず、ユングの考えを元にすると、何かに憧れるという心的活動は大きく次の二つに分けられると思います。

1. 自分の心的タイプに合致している憧れ

2. 自我によって抑圧されている憧れ

一つ目の、「自分の心的タイプに合致している憧れ」は言葉の通り、外交的な人間がより外交的なタイプの人間に対して抱く憧れといったもので、野球選手がより優れた選手に対して抱くような種類の憧れだと思います。ネガティブな意味では不良少年がヤクザに対して抱く憧れもこれに当たるかもしれません。

二つ目の、「自我によって抑圧されている憧れ」はフロイトによって提唱され、時には20世紀の人文分野での3大発見の一つなどと言われる「無意識」の存在を前提とした心的活動です。成績優秀な優等生が、ふとしたキッカケで期待されていたものとは全く違うキャリアを選択して生きていくといった場合に考えられる憧れです。

上村くんの事件のように、優しかった、良い子だった、はずなのに不良グループからは抜け出せなかったといった話の場合、二つ目の「抑圧された憧れ」をキーに考えるとストーリーが作りやすいと思います。もちろん、一般的にはという意味なので、家庭環境やその他の偶発的な要因は考慮せずに、という次元での話です。

上村くんの名誉の為に一言付け加えておくと、この「自我によって抑圧された」という表現には、「無意識的に」という重要な前置詞がついています。無意識的にという言葉は往々にして誤解されていますが、文字通り意識できないからこそ無意識的と言われます。つまり、「ああ、僕は何々がしたい。ということを抑圧している」ということが自分で意識できていたとしたら無意識的ではありません。自分でもなぜそういう行為をするのか、うまく説明することができない、あるいは説明するのが面倒に感じるけれども今日はあの先輩に連絡してみよう、といったふとした行動の裏に隠れている本人の知らない心の淀みが「無意識的な憧れ」と表現されるものと考えられます。

続きます